宝彩瞑想会|中野支部

瞑想の基本から、その奥まで。

観照の極意

瞑想会後の飲み会でのひとコマ。宝彩先生と参加者の方の会話です。

Aさん「宝彩先生、私は、正社員雇用じゃないのが不安なんです。先生も自営業ですけど、この先、仕事が継続してあるのか怖くなったり不安になったりされないんですか?」

宝彩先生「それは不安になりますよ。仕事の依頼が無くなったらどうしようってね」

Aさん「そうですよね、怖いですよね。それで、そんな時はどうされるんですか?」

宝彩先生「ああ、不安だなあって思う」

Aさん「ですよねえー。それで、それからどうされるんですか?」

宝彩先生「それで終わりですよ」

Aさん「へ?」

宝彩先生「ああ、不安だなあって思ってるなあって、思って終わり」

Aさん「え、あ、そうですか。ああ、はは…」

宝彩先生「あはははは」

Aさん「あは、あはははは」

仕事を依頼するかどうかは、相手の都合です。自分にはコントロールできないことをコントロールしようとすると、問題はますます大きくなり、不安も増します。不安だなあって思ってるなあって、思って終わり。
観照の極意ですね。

宝彩瞑想リーダー:チバ

自分と自分のアタマは違う

しばらく前の支部瞑想会で、「ケチとかすぐ怒るとか自分の性格を見ると落ち込むので、なかなか観照する気になれませんが」とAさんから相談され、こう答えました。

チバ「マインドを自分だと思っていると、それはしんどいでしょうね。マインドと自分を同一視し過ぎてるんですよ。自分と自分のアタマは違うと思ってみるといいですよ」

観照とは、自分の思考の動きを観察することですが、思考は、そのほとんどが欲に従って無自覚に動いています。つまり、観照とは、自分の欲を観ることとも言えます。
で、その欲を自分自身のように考えていると、観照することは苦しくなります。欲を持ってはいけないと思えば、思うほど。

そういう場合、「自分と自分のアタマは違う」という視点に立つと、自分の思考の動きに巻き込まれず、より客観的に、自分の欲を観ることができます。ああ、自分のアタマには、こういう仕組み(思い込みや判断基準)があって、それで、こんな風に考えているんだなあという感じで。

瞑想の場合も、同じです。
瞑想中、いろんな案件をアタマは持ち出してきますが、「自分と自分のアタマは違う」と思っていれば、その思考を追求しようとしたり、逆に、否定しようとすることもなく、「後で、考えよう」と、楽に棚上げができます

このように、「自分と自分のアタマは違う」という視点に立って、日常の修行や瞑想を続けていると、実感として、自分と自分のアタマは違うと感じられるようになると思います。
その後、Aさんからこういったメールをいただきました。

あれからよくわからないなりにも、自分と自分のアタマは違うと思ってみると、とても楽でした。拍子抜けするくらい。
自己嫌悪感がなくなってとても楽です。自分の人格・思考の仕方(アタマ)を自分だって思い過ぎてたんですね。そうすると、気分が悪い時は、アタマの思考設定がその気分の悪さを生み出してるだけということで。
宝彩さんの修行というのは、幸せに生きるために自分のアタマの設定のどこかを変えてみてるんだな。
と、思えました。

それで、
『今日、自分を少し変えてみる』の本にあった「『私は今幸せだ。それは○○さんのおかげだ』と言ってみます。黒いかたまりが落ちます」
を最近やってます。

これは、シンプルだけど、すごいです。うん、やってみてはじめてわかった、面白い。チバさん、ありがとうございました。

Aさん、とても楽になったようで、良かったですね。こちらこそ、ありがとうございました。

宝彩瞑想リーダー:チバ

本当のありがとう

第21回の中野支部瞑想会に参加してくださった、ぶうぶさんから感想をいただきましたのでご紹介します。

4月に参加させていただいたぶうぶです。その節はありがとうございました。チバ様から、ある宿題(?)を出題されていましたが、自分なりの答えを見つけることができました。その宿題と言うのは、

チバさん「何か日常生活で気になっていることはありますか?」

ぶうぶ「習い事をしていますが、その講師から、突然やめてくれと言われました」

チバさん「凄い話ですね。腹が立つのも当然だと思いますが、腹を立ててると気分が悪いですね。その先生に対し、感謝できる理由を考えてください。マインドが納得する理由を見つけられたら、感謝ができて、気分も良くなります」

というものです。
会の終了から、早速、ありがとう探しを始めてみました。とは言っても、

「別れてくれてありがとう」
「新しい先生と出会うきっかけを作ってくれてありがとう」

このような、負け惜しみ、捨て台詞のような考えしか出てこなくて、本当にありがとうと思うことは出来ませんでした。

なかなか、答えが見つからないと思っていましたが、ついに「先生、私の気持ちを気づかせてくれてありがとう」とその先生に対し、感謝の気持ちを思うことができました。

お差支えなければ、回答へ至った経緯や、先生に対する私の気持ちなどを、後日、送らせていただきたいと思っています。

チバ様のアドバイスがなければ、先生に対して、呆れているだけで終わるところでした。瞑想会に参加させていただいてよかったです。本当にありがとうございました。

ぶうぶさん、素晴らしい体験談をありがとうございました。回答へ至った経緯やぶうぶさんのお気持ちも、ぜひ、お聞かせください。ありがとうございました。

宝彩瞑想リーダー:チバ

怒りは行動エネルギー

宝彩先生の講演会リハーサル後の食事会、宝彩先生とスタッフAさんの会話。

Aさん「宝彩先生、この前Bさんがすごく怒ったことがありましたよね」

宝彩先生「え?そうだっけ」

Aさん「え、覚えてないんですか?あんなに怒ってたから、見てた私は怖かったのに」

宝彩先生「う〜ん、いつ?」

Aさん「ほら、先生がこうして欲しいとBさんに修正を依頼した時ですよ」

宝彩先生「……?」

Aさん「もう、先生ったら」

あははは。はい、宝彩先生はすぐに忘れます。どんな案件も、どんどん「済み」にして忘れて、前を向いて歩いてますからね。悟らなくても、瞑想を続けていると自然とそうなっていくようです。

宝彩先生「あ、あー、そうそう。思い出した、思い出した。すごい怒った怒った、怒ったねー(笑)」

Aさん「「ですよねー。それでですね、そんな風に相手が目の前ですごい怒っている時に、先生はどう思われたんですか?」

宝彩先生「ああ、それを修正するのは、それだけすごい大変な作業なんだなと思いましたよ」

Aさん「!?」

宝彩先生「こちらは素人だからわからないけれど、これだけ怒るということは、それだけその作業が大変なんだなあって。怒りは、行動するためのエネルギーですからね」

Aさん「はあーー、なるほど。私は、もう嫌だなあ、怒らなくてもいいじゃないか、こっちも腹が立つとか、もうこの人には提案や要求するのはやめようと閉じるとかに思考が行くのですが。そんな考え方があったんですね……」

怒りの度合いは、その作業の大変度。
「怒りは行動エネルギー」というのは、e-講座のアドバンスコースで習いましたが、目の前の相手が怒ってる時に、そんな風に見たことはなかったので新鮮でした。さすがですね。
ちなみに、この怒ってたBさんというのは、ぼくです(笑)

宝彩瞑想リーダー:チバ

待機説法

宝彩先生が瞑想や修行について話される時、前に言ったことと矛盾したことをおっしゃる場合があります。それは、特定の個人のために話されているからです。聞く方の状況がそれぞれ異なるからです。
寒いところから来た人は、温めてあげます。
暑いところから来た人は、冷ましてあげます。
そして、同じ人に対しても時期や状況によって、一見、矛盾したことを言われることがありますます。これは「待機説法」といいうものです。

最近、思考の変換がうまくいかないというe-講座受講生のAさんから、「『自分がして欲しい』を『相手にしてあげる』にするのは、頭の中だけで思考を変換して、気分がよくなるためにしてるんですよね?」という質問がありました。

どういうことかと言うと、欲で暴走している思考を止めるには、その反対の愛の方向に考える。たとえば、お金を返してくれない相手に腹が立つ場合、いったん、相手にお金をあげる。あげるというか、あげる理由を考えてみる。とっかかりは難しいですが、相手にお金をあげる理由を考え続けていると、ある瞬間に、本当に、欲が消えて心がすっきり晴れます。これは、やってみれば誰でも簡単に体験することができます。
いわゆる「欲の思考を愛の思考に変える」ということですが、いわゆる真面目な人には、ひとつ言っておいた方がいいことがあります。

それは、「実際に、相手にお金をあげる」のではないということです。
実際にどうするのかは、相手にお金をあげる理由を考えて欲が消えた状態になってから、考えればいいのです。その状態なら、自分のことも相手のことも公平に見て、正しく判断できます。欲を愛に変えるのは、聖人君子になるということではないです。修行は道徳ではありません。真面目な人ほど、間違いやすいポイントですが、先ほどのAさんの質問はこの点を踏まえてのことでした。

Aさん「そうですよ、わかってますよ。だから、『自分がして欲しい』を『相手にしてあげる』にするのは、頭の中で変換して気分がよくなるためにしてるんですよね?本当には、してあげなくてもいいんですよね」

チバ「はー、なるほど(笑)。だから、待機説法なんですねえ。
確かに、『お金が欲しい』なら『お金をあげる』に変換して気分がよくなった後の行動は自由自在です。愛からの行動になります。だから、『お金をあげる』を実際にするとは限らない。だからと言って、最初からあげる気がなくて『頭だけでやればいいだけでしょ』なんて思ってる人には、相手にあげると本気で思ってやってみるように言いますね(笑)。たとえば、先ほど話に出てたBさんは、本気で相手にあげると思ってやったから気分が変わったんだと思いますよ」

Aさん「はー、なるほど(笑)」

宝彩瞑想リーダー:チバ

あんなことが起きて良かった

第41回の中野支部瞑想会の後、参加者のみなさんとお昼を食べました。いろんな話題が出ましたが、Bさんから次のような質問がありました。

「私は、仕事で失敗したとか後悔するようなことがあった場合、5分だけそのことについて考えて、落ち込むことにしてます。その後は、『そのことはもう、5分間考えたから』と棚上げするようにしていますが、こういうやり方でいいでしょうか?」

後悔というのは、思考の仕組みとしては単純です。

今の自分は不幸だ。気分が悪い。落ち込んでいる。→ その不幸の原因は、過去のあの出来事だ。→ ああ、あんなことが起きなければ良かったのに。→ どうすれば良かったのだろう? あれこれ、あれこれ。→ でも、もう起きてしまった。→ 私は不幸だ。気分が悪い。→ その原因は、過去のあの出来事のせいだ。→ ああ、あんなことさえ起きなければ良かったのに。→ でも、もう起きてしまった。→ 私は不幸だ。気分が悪い…。→(以下、略)

後悔というのは、このような堂々巡りを繰り返すことです。アタマは何をしたいかというと、過去のあの出来事をなくしたい。すでにもう過去に起きたことを、あんなことが起きなければ良かったのに、と思い続けている。でも、もうそれは起きた。
何をどう考えても過去は変わりません。こんな当たり前のことが分からなくなるぐらいアタマは馬鹿です(笑)。

後悔の思考から抜けるポイントは、まず、「いくら考えても、過去は変わらないということ」を理解することです。そして、認めること。「あんな出来事が起きて、残念だった」と。

アタマは、この「残念だった」ということを認めたくないわけです。残念をなくしたいから、考え続けます。悪い気分をなくそうとして、ますます悪い気分を作っている。なので、しっかり「残念だった」と認めること。

認めたら、次は、「その出来事が起きて良かったと思える理由」を考えてみましょう。最初は、屁理屈やこじつけのような理由しか思いつかないかもしれませんが、なんでもいいです。それを少しずつ積極的な方向に変えていけば。「あんなことが起きて良かった」と思えたら、「あんなことが起きなければ良かったのに」という思考は完全に消えます。何か後悔するようなことが起きたら、ぜひ試してみてください。

宝彩瞑想リーダー:チバ

「あんなことが起きて良かった」と思うコツ

前回の瞑想コラム『あんなことが起きて良かった』で、

「その出来事が起きて良かったと思える理由」を考えてみましょう。最初は、屁理屈やこじつけのような理由しか思いつかないかもしれませんが、なんでもいいです。それを少しずつ積極的な方向に変えていけば。「あんなことが起きて良かった」と思えたら、「あんなことが起きなければ良かったのに」という思考は完全に消えます。

と簡単そうに書きましたが、そう簡単に「あんなことが起きて良かった」とは思えないですよね。だって、「あんなことが起きなければ良かったのに」と思っているんだから。と、アタマはすぐに言ってきますね(笑)。

さて、ではどうすれば、「その出来事が起きて良かった」と思えるか。
それには、ちょっとしたコツがあります。それは、「もし仮に、良かったとしたら、どういう理由があるか?」と考えてみることです。本気で思わなくてもいいから、もし仮に、あんなことが起きて良かったとしたら、どういう理由づけができるか?

最初から本気で「あんなことが起きて良かった」と思わなくていいのです。まずは、「もし仮に、良かったとしたら、どういう理由があるか?」ここからスタートしてその理由を考えてみる。屁理屈でもこじつけでも何でもいいので、クイズに答えるようなつもりで。
これが、あんなことが起きて良かったと思うコツです。

そうやって理由を積み重ねていくと、少しずつアタマもそちらの方向に向き始め、だんだん自分でも納得できる理由を思いつくようになります。そうなると、いつのまにか「あんなことが起きて良かった」とアタマも本気で思うようになります。

このあたりのことは、『気楽なさとり方(日本教文社)』の<小松茸、ついに牛をつかまえる>の章が参考になります。
『気楽なさとり方(日本教文社)』

宝彩瞑想リーダー:チバ

腰が痛くて、ありがたい

瞑想会でもたびたびお話ししていますが、瞑想を深めるためのポイントのひとつは日常の過ごし方です。
瞑想の第一段階では、マインドの机上のデータを片付けていきます。マインドの机上のデータとは、その日見たこと聞いたこと考えたことなどですが、この日中のデータは、嫌な感情をともなうものほど大きくて重たいものになります。

たとえば、日中に起きた腹の立つ出来事は、瞑想中にそれを思い出しても腹が立ちます。当然、棚上げもしにくい。昼間はあんなに腹が立ったのに、不思議と瞑想中は腹が立ちません、なんてことはないのです。なので、なるべく日中もなるべく穏やかに過ごし、悪い気分はそのつど解消しておいた方が、瞑想は早く進みます。瞑想中にその出来事を思い出しても、悪い気分を伴わなければ、たんなる記憶なので棚上げも簡単なので。
それに、悪い気分は解消した方が、気分良く過ごせますね。あたりまえか(笑)

さて、この悪い気分を解消する方法のひとつに解釈の変更というものがあります。ある出来事によって気分が悪くなるのは、その出来事を不満に感じる欲の思考が走っています。その欲の思考を愛の方向に変えると、つまり欲を手放すと、気分は良くなります。思考を愛の方向に変えるやり方もいろいろとありますが、そのひとつに「感謝する」というのがあります。
先日、この修行をしっかりとやる機会があったので、そのときのことを書いてみたいと思います。

その日、目覚めると腰に激痛を感じた。腰を反っても丸めてもバキバキに固まった腰に痛みが走る。呻き声をあげながら起きあがった。二週間ほど前にも同じような痛みがあり、ようやくようやく回復したと思っていたのに。あ〜あ、今日も一日大丈夫かな。椅子に座るのもひと苦労で、食事の準備をしてくれてる同居人も心配そう。

なんとか仕事に出かけても、ことあるごとに腰の痛みが気になる。こういうときこそ、修行のチャンスだと思い、「腰が痛くて、ありがたい」理由をマインドに考えさせてみた。

腰が痛くて、ありがたい。でも、なぜ?
とりあえず動けるから、ありがたい。
同居人や同僚が気づかってくれるから、ありがたい。
体調の具合の悪い人にやさしい気持ちなれるから、ありがたい。
修行のネタになるから、ありがたい。
痛みというのは体からのサインだ。
つまり、体はちゃんと機能してくれて、どこか日常の過ごし方や姿勢に問題があることを教えてくれてる、ありがたいなあ。

こんなこと考えながら、ネットで腰痛について調べてみると、たくさんの検索結果が。その中のひとつに、座ってできる腰痛対策のストレッチがあり、さっそくやってみると、おお、なんだか少し楽になった。ありがたいなあ、わざわざ動画まで作ってくれて。人は助けあって生きてるんだなぁ。

考えてみれば、「痛み」と「苦しみ」は別なもの。痛みから苦しさを発生させているのは、自分の思考だ。この痛みを早くなんとかしたいだとか、ずっと癖になったらどうしようだとか。それは、アタマが自分の都合だけを考えてるってことで、なるほど、これが欲か。
ああ、体のことは考えてなかった。しっかり働いてくれて、サインまで出してくれてるこの体。もっと大事にしよう。丁寧にケアしよう。そう思ったときにあったかい気持ちが流れた。ああ、これが自愛なんだ。なんだか腰の痛みさえかわいく思えてくる。ありがとう、大事なことを教えてくれて。

こんなふうに、欲の思考を愛の思考に変えると、すっかり気分は良くなりました。「腰が痛い、どうしよう」というのと「体をしっかりケアしよう」では、実際にやることは同じだろうけど気分は全然違うことも実感できて面白かったです。おかげさまで、今ではケアも続けて腰もすっかり良くなりました。

宝彩瞑想リーダー:チバ

コップの水

宝彩道場のキーワードのひとつに「解釈の変更」というものがあります。
解釈の変更とは、よくあるたとえだと「コップに半分しか水がない」と思うと不満が生じるけど、「コップに半分も水がある」と思えば満足した気分になる。「コップ半分の水」という事実は何一つ変わらないけど、その事実の受け止め方、つまり解釈を変えれば気分も変わる。イライラや不平、不満など気分が悪くなっていることに気づいたら、その気分を生み出している思考の解釈を変えれば、気分は良くなるということです。
これは気休めのようにも思われがちですが、実際にこの技が決まると、本当に気分ががらりと変わります。自分でも笑ってしまうくらい。感動してしまうこともあります。

さて、以前、瞑想会の参加者から「解釈の変更」をしたけれど、いまいちうまくいかなかったという話がありました。具体的に聞いてみると、仕事でインタビューに行くことになったけど、あまり気が進まないので「話を聞きに行けば、自分の将来に役立つノウハウが得られる」と思ってみたとのこと。結果、少し気が楽になった気はするけど、すっかり気分が良くなったかというとそれほどでもない……と。

「話を聞きに行けば、自分の将来に役立つノウハウが得られる」というのは、「だから、ありがたい」と感謝の方向に解釈を変更したはずなのですが、それではなぜすっきりしないのでしょう?

まず言えることは、「自分の将来に役立つノウハウが得られる」というのは、まだ欲寄りの言葉だということです。
欲というのは、まさに[自分]の[得]を考えることです。元の欲が強い場合は、それだとあまり気分は変わらない。解釈の変更としてはまだ弱いということではないでしょうか。

解釈の変更のポイントは、思考のベクトルを正反対の向きに変えることです。
たとえば、思考の向きを[自分]から[相手]に変えること。自分のことを考えからはずせば、それは欲の思考ではなくなります。

さきほどのインタビューの例で言えば、わざわざ時間を作ってインタビューに応じてくれるんだなあと[相手]に直接、感謝する方向に行けば、そこに自分のこと、自分の欲の思考はありません。きっと気分は変わります。

宝彩瞑想リーダー:チバ

「解釈の変更」は何のため?

瞑想コラムに前回書いた「コップの水」という記事を読んだ方から、質問をいただきました。ざっくりいうと「自分が得したからありがたいなと感謝するのは、欲だからダメなんでしょうか?」と。なるほど、そういうふうにも読めるかもしれません。このあたりとか。

まず言えることは、「自分の将来に役立つノウハウが得られる」というのは、まだ欲寄りの言葉だということです。
欲というのは、まさに[自分]の[得]を考えることです。元の欲が強い場合は、それだとあまり気分は変わらない。解釈の変更としてはまだ弱いということではないでしょうか。

ただこれは、このコラムに出てくる「自分なりに『解釈の変更』をしたけれど、いまいちうまくいかなかった」ケースについての話で、こういうのって文字通りケースバイケースです。もし「得したからありがたい」と感謝できていい気分になるのなら、それはそれでOKです。OKですというか、それで十分でしょう。何の問題もない。

「解釈の変更」は、それ自体が目的じゃありません。また、愛の思考をして欲のない善人になろうという話でもない。その目的は、悪い気分の元になっている思考を消して、いい気分になること。ハッピーになること。

だから、「解釈の変更」ができてるかどうかは自分の気分を観ればすればすぐにわかります。解釈の変更をしたけど気分がすっきりしない場合は、まだ変更しきれてないということ。どこか欲が残っているということです。そのままにして終わりにするのはもったいない。
そういう場合は、すっきりするまで、気持ちの変化を感じながらあれこれ試行錯誤を続けた方がいい。自分の気分がいちばんのバロメーターですよ。人は欲がなければハッピーです。

宝彩瞑想リーダー:チバ

「お客さんを増やしたい」の愛転化

宝彩道場には、『愛と欲の8要素表』というものがあります。悪い気分になったときには、必ず満たされてない欲(思考)があります。その悪い気分の元欲を見つけて、その欲と逆方向の愛に転化します。そうすると、欲そのものが消えて気分もすっきりします。これが『愛と欲の8要素表』の基本的な考え方です。

先日の中野支部瞑想会で、この『愛と欲の8要素表』の説明をしようとしました。なにか具体的な懸案事項や問題はないですかと参加者の方に聞いてみたところ、「お客さんを増やしたい」というお題が最初に挙げられました。ちらっと考えてみたところ、この「お客さんを増やしたい」の元欲の説明は複雑になりそうだったので、「他にありませんか? もっとシンプルなの(笑)」とリクエストしました。親切にもその方は「上司に認められたい」というのを出してくれたのでその場ではすみやかに説明できたのですが、「お客さんを増やしたい」は、なぜ複雑なのでしょう? 複雑なものには『愛と欲の8要素表』は効かないのでしょうか?

いや、そんなわけないですね(笑)。
「お客さんを増やしたい」という言葉では元欲がはっきりしていないだけです。客が増えることで何を自分が得すると思っているのか、その言葉に織り込まれている欲を観る必要があります。たとえば、客が増えて自分の成績が上がって給料も上がることを期待している場合は経済的な欲ですね。客が増えて上司に今より認められることを期待している場合は承認欲求だし、あるいは、ライバルに負けたくないという場合はまた別な欲ですね。その部分さえわかれば、愛に転化するのは簡単です。

「もっと給料が欲しい」なら「じゅうぶんもらっている。ありがたい(感謝)」。
「自分を認めてほしい」なら「相手を認めてあげる(愛)」。
「ライバルに負けたくない」なら「自分も相手も素晴らしい(大肯定)」。
まあ、瞑想会の場面でここまで明確に考えたわけではないですが、こんなふうにこみいった話になる予感はしていたので「他にありませんか?」となったわけです。

でも、あとになってふと思いつきました。「お客さんを増やしたい」の愛転化は「お客さんに得してもらおう、お客さんに喜んでもらおう」じゃないかなと。なかなかいいんじゃないですかね、これ。こういう意識で仕事ができたら楽しそうですね。

欲の思考の中心にあるのは「自分」です。その「自分」を思考からはずせば、欲は消えるということです。「自分」が誰かから何かを得たいと考えて苦しくなっているなら、その誰かに与えることを考える。それだけで、すっきりと爽やか気分になります。そのためのヒントが『愛と欲の8要素表』です。

宝彩瞑想リーダー:チバ

不安の解消

いくら考えても、変えられないこと、分からないことを考えるのは無駄です。
変えられないことというのは、過去のことです。過去のことをいくら考えても、もう変えられません。
分からないことというのは、未来のことです。未来のことは、いくら考えても答えを確定できません。
考えるのなら、具体的な行動に結びつくこと、今できることを考えましょう。先日の中野支部瞑想会でこういった話題がありましたので、こちらでご紹介します。

Bさん「未来のことで不安を感じる時はどうすればいいんでしょうか?」

チバ「具体的にはどんな不安ですか?」

Bさん「職場で人が抜けることになっていて、あの人がいなくなったらどうなるんだろう、大変そうだなと考えてしまいます」

チバ「なるほど。でも、どうせやるんでしょ、そのときが来たら」

Bさん「はい、多分そうですね」

チバ「今不安に思っても、そのときがきたら、やる。今不安に思ってなくても、そのときがきたら、やる。どっちにしてもやるなら、今、不安に思わない方が得じゃないですか?」

Bさん「あ、そうですね(笑)」

チバ「『そのときのオレよ、しっかり頼むぞ』と思って棚上げすればいいんじゃないですか(笑)」

Bさん「ははは」

チバ「あと、不安だとか心配だとか、アタマはいろいろあれこれ考えますが、その想像はほとんど実現しませんよ。自分が不安や心配に思ったことをメモしておくと面白いかもしれません。
で、あとでその心配がどのくらい考える意味があったか確かめてみると、心配って無駄だなあと実感できると思います。それに、心配とか不安なことって、どんなに答えが出ないことでも、忘れちゃいけない大事なことだからとマインドは何度も思い出しますが、「それはもうメモしてる」と言ってやれば、簡単に棚上げできます。うまくやれば、そのまま忘れられますよ」

宝彩瞑想リーダー:チバ

後悔の解消

先日の瞑想会で「後悔の感じ方変えるのは簡単なんです」という話をしました。それに対して、参加者の方から、

> それができるなら、、と思いました。びっくりです。
> そのためには過去のいやな気持に向き合わないとなりませんが、見てみようかな、と思いました。

という感想のメールをいただいたので、復習として「後悔の解消の仕方」を返信メールに書きました。それを抜粋してこちらに掲載します。

後悔の思いをひとことで書くと「あんなことが起きなければ良かったのに」です。もう少しその思考の流れを詳しく見てみると、

今、私は不幸だ。気分が悪い。
 ↓

その原因は過去のあの出来事のせいだ。
 ↓

どうすれば、あんなことが起こるのを防げたんだろう?あれこれあれこれ……
 ↓

でも、あのことは起きた。
 ↓

ああ、あんなこと起きなければ良かったのに……
 ↓

今、私は不幸だ。気分が悪い。
 ↓

(繰り返し、以下略)

となります。
文のひとつひとつは、どこもおかしくはなさそうですね。でも、この思考の流れには出口がありません。どこまで行っても、堂々巡りです。上の部分をコピーして、3回ぐらいペーストしてみてください。見るだけで、ちょっと気分が悪くなりそうな堂々巡りができあがると思います(笑)

でも、頭の中で考えてると、どれくらい自分が堂々巡りしているか気づけずに、堂々巡りをやり続け、どんどん頭は疲弊して、気分もどんどん悪くなっていきます。なので、後悔などの堂々巡りはできるだけ早く抜けた方がいいです。

そのためには、まず残念な出来事が起きたことを認めること。それを認めたくないから、「あんなことが起きなければ良かったのに」とアタマは変えられない過去をあれこれ考えます。

過去に起きた事実は、変えられません。
「あのことは起きた」から「あんなこと起きなければ良かったのに」へ行くのではなく、「あのことは起きた」から「そう、たしかに残念なことが起きた」と認める。

でも、「あの出来事」は「残念な出来事だ」というのは、自分の解釈です。それと「今、私は不幸だ」の部分ですね。その解釈・判断を変えればいいわけです。自分でしている判断だから、自分で変えられます。つまり「あの出来事があったおかげで、私は幸せだ」というところまで持っていけばいいわけです。

そのためには、「あの出来事があったおかげで私は幸せだ」と思える理由を考えてみましょう。自分のアタマにクイズを出すつもりで、「あの出来事があったおかげで、今、私は幸せだ。それはなぜ?」と。

最初は、負け惜しみのような理由、こじつけのような理由しか思い浮かばないかも知れませんが、それでいいんです。ただ、理由をひとつ思いつくたびに、自分の気持ちの微妙な変化を感じてください。いずれ、「あのおかげで、私は幸せだ」と本気でアタマが思うようになります。その時は、自分でもびっくりすると思いますよ。

あと、この解釈の変更は、いきなり過去の大きな後悔をほじくり出すよりも、日常のささいなことから練習した方がいいと思います。「もうちょっと早く家を出れば良かった」とか「お昼、あんなに食べ過ぎるんじゃなかった」とか。きっと、解釈で自分の気持ちは簡単に変わることが実感できると思います。楽しんで練習してみてください。

宝彩瞑想リーダー:チバ

喪失について

前回の瞑想コラムで「後悔を解消する」という記事を書きました。今回は、喪失について少し。

誰か大切な人を亡くした時も、後悔してしまうことが多いですね。「もっと大事にしてあげればよかった」とか「もしあの時、自分が何かしていれば……」とか。
でも、いくら考えても、過去はやり直せないし、確証のある答えも出ませんね。

こういう場合に必要なのは、その事実に向き合うことだと思います。
悲しみを、きちんと悲しむこと。

かけがえのない人ともう会えない寂しさを感じる。
同時に、そんな人に出会えたありがたさを。

もう会うことはできないけれど、ともに過ごした思い出は、いつでもそこにあります。
自分の中に。

そして、その人がいない日常の中で、自分が幸せになることを許してあげましょう。

宝彩瞑想リーダー:チバ

酸っぱいブドウ

宝彩道場のメソッドのひとつに「解釈の変更」というものがあります。「満たされない欲があって気分が悪いときに、その欲の思考を愛の方向に変えれば、欲が消えます。欲が消えると、気分が良くなります」という教えです。愛と欲の8要素表などでもおなじみですね。

ただ、この「解釈の変更」に対して抵抗を感じることがあります。そういった場合、マインドは「これは本当の気持ちをごまかしてる」とか「ただの負けおしみじゃないか」といった、もっともらしい理由をもちだしてきます。が、もちろん「解釈の変更」はごまかしや負けおしみとは違います。

さて、ここで負けおしみの例としてイソップ寓話の「酸っぱいブドウ」を考えてみましょう。お腹を空かせたキツネが美味しそうなブドウを見つけますが、木の高いところにあってなんど飛び上がっても届かない。どうしてもブドウを取れないキツネは、「どうせ酸っぱいブドウに違いない。あんなもの誰が食べてやるものか」と言い捨てて立ち去った、というお話ですね。この「酸っぱいブドウ」と「解釈の変更」は、どこがどう違うのでしょう?

いちばんのポイントは、「酸っぱいブドウ」のキツネは、ほんとうはまだブドウを食べたいという点です。もしブドウが落ちてきたら、大喜びで食べるでしょう。でも、そうはいかないから「あんな酸っぱいブドウはいらない」と。つまり、もともとの「ブドウを食べたい」欲は消えていないんですね。これが最初のポイントです。

いっぽう「解釈の変更」は、まさに元の欲を消す、手放すことが目的です。解釈の変更をやってみたのに、うまくいかない。そういう場合は、元の欲はなんなのか、それは消えているのか確認してみるといいです。きっと何かヒントが見つかるでしょう。

ひとつ補足しておきます。それは、「解釈の変更」の対象となるのは精神的な欲だということです。認められたいだとかお金が欲しいだとかいろいろありますが、これらの精神的な欲はマインドが作り出した概念なので、消すことができます。

いっぽう、呼吸、睡眠、食欲などの肉体的な欲は、生命活動にとって必要なことなので適宜満たしてあげる必要があります。肉体の欲を上手に満たすことが、マインドの本来の仕事です。だから「取れないブドウにはこだわらず他の食べ物を探す」という意味では、キツネの行動は正解ですね。あるいは、ハシゴを持ってくるとか(笑)

宝彩瞑想リーダー:チバ

好きにしていい

瞑想会で、「仕事で関わりたくない上司がいて、でも話をしないといけないので話し方とかを考えるのがストレスだ」という話がありました。

いかにも職場とかでありそうな悩みですね。
でも、ストレスは自分で作っているので、自分で消せます。相手を変えることより簡単です。良かったですね。
要は、悪い気分を生み出している思考を消せばいいんです。
つまり欲を手放す。

「関わりたくないけど、関わらなければいけない」場合にある欲は何でしょう?
そうですね。「関わりたくない」です。
「関わらなくてはいけない」の方にも欲はあるでしょうが、仕事でその上司と関わることは必要だという判断は妥当だとしましょう。今回は。

で、「関わりたくない」ですが、欲というのは肯定形でできています。否定形では行動ができないので。「関わりたくない」を肯定形で言うと何でしょうか?

そうですね。「ほっといてほしい」とか「好きにさせてほしい」です。
欲を愛の方向に変換するには反対の方向に考えればいいんですが、「好きにさせてほしい」の反対は何でしょう?

そうですね。「好きにさせてあげる」です。
「自分の好きにさせてほしい」の反対は「相手の好きにさせてあげる」。自由にさせてあげる。

はははは。凄いですね。
そんなことしていいの?って思いませんか?
「好きにしてもいい」だなんて、相手がつけあがるだけじゃないかと。

でも、そうじゃない。ってところが面白いんです。
相手に「自由にしてもいいよ」と思えると、自動的に、自分も「自由にしていい」と思えるから。それは強さです。

「ほっといてほしい」「好きにさせてほしい」と思う場合、そこには「人を支配しようとしてはいけない」という判断基準があります。

この判断基準を持っている人は、それを持ってない人に対してめっぽう弱い。支配しようとしてくる相手に対して「支配するな!」と言うことさえ言えない。それも人を支配しようとすることだから。
もう、な〜んにも言えない。

ところが、相手に「自由にしてもいいよ」と思えた瞬間、その呪縛が解けます。「人を支配しようとしてはいけない」という判断基準が消えるから。自分についても、そうなります。つまり、相手に「支配するな」と言う自由も手に入ります。

自分が「支配してはいけない」と思おうが「自由にしてもいい」と思おうが、相手は、何ひとつ変わりません。その上司は最初から好きに振舞っているだけです。
相手に「好きにしていい」と思うことで変わるのは、自分です。
好きにしていいんですよ。

宝彩瞑想リーダー:チバ

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